西貢つれづれ窓

〈第25回〉

点と線

 手許のGoogle Earthは2011年撮影版である。わが現場を見ると、前後の工区には道路らしい線が見えるが、私のところは河川内にいくつか点が見えるだけである。この「点」は橋脚、すなわち橋を支える柱である。この後、この点から線が両側に張出して、最終的に両岸を繋ぐ一本の線になろうとは、お釈迦様でもお気づきにならないだろう。
 それが2013年10月14日(月)午前4時、1本の線になった。翌15日には運輸大臣ご列席の下、「連結式」が挙行された。橋の工事における連結式は、トンネル工事における貫通式のようなもので、いずれも完成前の重要な儀式である。今回は、この儀式をめぐる三題噺である。

《奮闘篇》

 9月27日月例会議席上、発注者が突然「連結式を10月12日(土)に行う」と発表。私は、「そんなことは聞いてない。工程どおりにいったって無理だ」と反論する。発注者からは、おまえの言う事なんか聞いていない、これが最終決定だと通告される。その日はホーチミン市で他の橋の開通式が予定されており、ハノイからの要人の都合がいいということらしい。
 ダメモトで、関連するすべての下請けを集めて可能性を探る。日本では、こんなことはゼネコンの仕事だが、ここでは私の仕事。一つ一つの作業を洗い出し、作業Aが終わらないと作業Bができないというところを、Aが半分終わったらBに取りかかるなど、半日単位で短縮案を探る。結果、13日(日)なら式典ができるかもというところまできた。当然24時間労働だ。
 しかしながら、というか当然というか、現場では予想外のことが起こる。下請けたちは、あの会社の片づけが終わっていない、設計の不備で余分な仕事が増えたとか言い訳をしながら、工程は半日1日と延びてゆく。
 やはり、橋が繋がったことにして別のところで儀式をやるしかないかとあきらめかけた頃、15日(火)に延期との連絡が入る。なんでもベトナムの英雄ザップ将軍(フランス相手にもアメリカ相手にも負けなかった将軍らしい。103歳!)が亡くなられ、週末は全国民が喪に服すのだそうな。実際、土日月の3日間は歌舞音曲禁止、したがってベトナム中のカラオケ屋は休業だった(らしい)。作業できる日が2日増えた。
 再度、全ての下請けのリーダーに招集をかけ、15日に間に合わせる案を探る。それからの作業員、元請エンジニア、コンサルタントのインスペクター達の頑張りには本当に頭が下がる。当地にきて3年半、初めてすべてがかみ合ったという感じだ。
 日曜日深夜、自宅でウトウトしているところへ現場にいるエンジニアより電話が入る。声が弾んでいる。
 「準備OKです。最終閉合ブロックのコンクリート打設を開始します」
 翌早朝、一部を残して打設終了。コンクリート橋の連結式というのは、最後に少しだけ残しておいた部分を要人に打ってもらうのである。
 火曜日午後4時、予定通り連結式開始。ハノイの要人たちは、彼らの苦労を知ってか知らずか、一様にニコニコ顔ではあった。
 私はというと、打ち震えるような感動もなく、これまでの苦労が吹っ飛ぶという感じもなく、ましてや涙などとんでもなく、頑張ってくれた仲間に感謝するのみ。ただただ笑顔で握手を繰り返す。

《騒動篇》

高速道路の料金所前後は、通常、アスファルト(AC)舗装ではなくコンクリート舗装(PCCP)である。この部分はどうしても車の密集度が高くなり、摩耗が激しいせいである。ここでも料金所の100m区間はPCCPの設計であった。10月23日、この前後のAC舗装工事を開始する直前、発注者より「ともかく止めろ」と電話で指示がくる。理由はよくわからないまま、指示に従う。


アスファルト舗装(左)とコンクリート舗装(右)

 翌24日の月間工程会議。発注者より、「現設計のPCCP区間の両側180mもPCCPに変更する」と宣言される。本省(運輸省)専門家の指示だというのみである。
 この時期に来て、こんな重大な変更は工程管理に大きな齟齬を及ぼす。これから設計変更に要する日数を考えれば、目標としてきた12月末暫定開通はまず不可能である。今までの努力は何だったのか、という言葉をぐっとこらえてワタナベサンは吼える。
 「こんな理不尽な設計変更が、会計検査を通るのか」
 「JICA(国際協力機構、ODAのスポンサー)が増額を認めるのか」
 「あなた方は、本省にはNOと言えないのか」 「これはInternational Contractである。FIDIC(国際建設工事契約約款)によれば、こんな突然の変更指示は施工者も拒否できるはずだ。どうしてNOと言わないんだ」
 「12月末開通の約束を反故にしていいんだな」
 何を言ってもテキは無反応、暖簾に腕押しである。本省の決定は最終決定だ、と繰り返すのみである。明日ハノイとテレビ会議をやるので参加を要請されたが、これが最終決定なら出る意味がない、と言ってごねる。まるで子供のけんかだ。議題は他にもあるから出るよう要請され、しぶしぶ了承。
 頭に血を上らせたまま帰宅。ベッドに入って少し冷静になると、この変更が将来の維持管理に支障をきたすという(屁?)理屈を思いつく。起き出して昔の同僚にメールを打つ。私はこの分野に詳しくない。私の理屈がおかしくないかを、専門家に確かめておく必要がある。
 「明日の朝一番に答えをもらえばありがたし」 ベトナムと日本の時差は2時間ある。彼が出社して即返事をくれれば、会議には十分間にある。答えは来た。屁理屈にも理があるようだ。
 翌朝、テレビ会議。しばらくどうでもいい議事の後、本題に入る。発注者(運輸省傘下の高速道路公社)の総裁が、こう切り出す。
 「今回の変更に対し、コンサルタントの意見はどうか」
あれっ、これは最終決定ではなかったのかと思いながら、渡りに船と、昨夜思いついた自論を展開する。総裁は、隣の副総裁に意見を求める。副総裁はこう答えた。
 「コンサルタントの意見に賛成です」(あれっ?)
 「そうか、では現設計どおりで行こう」、と総裁。
あれっ、あれっ、あれっ、と驚く間もなく、「最終決定」は簡単に撤回された。どよめくこちら側の会場。施工者の所長は私に握手を求めに来る始末。
 みんなやりたくなかったんじゃないか、だったらなぜ言わないんだよ、これが一党支配政治の諸悪の根源だ、とだんだん腹が立ってくる。上の言う通りしていれば誰も責任を取らなくていい・・・と、ここまで考えてふと思う。
 日本の大企業と同じか。

《苦悩編》

 連結式も無事終わり、まだ皆の顔にニコニコの余韻が残る頃、施工者のエンジニアが血相変えて私のオフィスに飛び込んでくる。普段、大変なときでも余り大変だと思わないヤツが、「大変です」と言う。件の閉合ブロックの型枠を外したら、橋げた下面のコンクリートが剥がれてきたと言う。
 とりあえず現場に行く。何事も現場を見なければ始まらない。彼の言うとおり、事態は「大変」である。原因はすぐに推測できた。橋げたの施工誤差により、設計で考えていなかった力が働いたのである。
 施工誤差のことは知っていた。それによってこのような力が生じることは十分予測できた。そのことに考えが及ばなかったのは私のミスである。着工後3年半、初めて遭遇した「重大事態」である。
 施工者も、今回ばかりはワタナベサンの言うとおりにします、と恭順な姿勢を見せる。私も将来の憂いを排除するため、あらん限りの知恵を絞る。ところがここはベトナムである。日本では当たり前の材料がないという。
 一瞬私もあきらめかけたが、チョット待て。彼らの「ない」は「探す気がない」、「できない」は「ヤル気がない」でなかったか。「ない訳ない、探せ!」と叱咤する。その材料はやはり、「あった」。
 今回ばかりは指示して終わり、という訳にはゆかない。私はすべての補修作業に付き合った。作業は水面上35m、作業空間は高さ1mしかない。這いつくばって作業していると、不思議な連体感が生まれる。ベトナム人は自分のミスに寛大な代わり、人のミスを攻撃することもしない。何とみんな笑顔だ。
 完全に仕上げるまでに2週間かかった。作業足場が取り払われるのを見て、感激しているのは私ひとり。下請けのリーダーや作業員たちはいつもの仕事が終わっただけ、という顔をしている。
 この日、Google Earthで見えない橋けた下面で、本当の「線」が繋がった。

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素晴らしき後輩へ

-丸亀高校 宮崎耕太君への手紙-

 その瞬間、君は、少しはにかんだような笑顔を見せて、ペロッと舌を出した。横浜高校が3-0とリードして迎えた5回表、一死二三塁。バッターは、神奈川県予選であの桐光学園松井投手からバックスクリーンにホームランを打ったという2年生四番。それまでの2打席、完璧に抑えていた自信からか、初球はインコースの直球。彼は軽々とその球をレフトスタンドに運んだ。6-0。
 君の野球部室には日めくりカレンダーがあり、そこに前監督の野球哲学が記されていると新聞で読んだ。その一つが、「高校野球は、強いものが勝つのではなく弱いものが負ける」。君の笑顔は、「いやー先生、世の中にはすごいヤツがいますよ」だったのか・・・。
 君の直球は最速でも129km/h、横浜高校の2年生エースのように内角に落ちてくるチェンジアップがあるわけでなく、高速スライダーをもっているわけでもない。その投手が香川県予選すべてを投げ抜き、香川県代表になった。「弱くならない」ための努力が、他校より優れていたということだろう。でも、横浜高校はもっと強かった。
 僕は君に、「胸を張れ」などとは言わない。君たちは、とっくに胸を張っている。テレビを見る限りでは、君は涙を見せなかった。何の泣くことがあろうか。何の悔いが残ろうか。堂々の敗戦だ。
 テレビの番組で、君が監督に「大学でも野球をやれ」と言われ、「はい、これから勉強します」と答えているのを見た。その意気やよし。勉強したまえ、半年で足りなければ、1年半かけて(場合によっては2年半かけて)行きたい大学へ行けばいい。そこで野球を楽しみなさい。
 実は、僕は君の中学の大先輩だ。65歳だけど、草野球を楽しみたいと思っている。

平成25年8月13日

 香川大学学芸学部(昔はこう呼んだのだ)附属坂出中学校 野球部出身
渡 辺 泰 充

 

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西貢つれづれ窓

〈第24回〉

神はこころのなかに

 前回、「どんな変化や無理難題が来ても、解決する道は見えてくる。それは、これまでの経験と、わからないことを聞ける元同僚や友人のおかげである」と、大見得を切った。それはウソではないが、困難な課題に対する解決策にいつも100%自信があるわけではない。これで大丈夫だとは思うけれど、あとは「神だのみ」ということもある。
 現場のベトナム人スタッフにも、やることをやったら「あとは祈れ」と言っている。そんなことを言われなくても、ベトナム人は日本人より信心深い。彼らが何を「信じ」ているかは知らないが、新しい作業を始めるとき、トラブルがおきたあと、その対策を実施する前などは、必ず菊の花(黄色は幸せの色、第17回参照)を飾り、線香を立て、時には料理や野菜を添えて祈る。

◇ ◇ ◇

 これぞ「ローテクの真髄」と、前回自慢した工法で破綻が起きた。韓国の業者が考えたというアレである。鋼製の箱を空中で作り杭から吊り下げておく、それを沈めて水中で厚さ1mのコンクリートを打つ、ポンプで水を汲み出(=ドライアップ)して、あとは気中で河川水面下に基礎を作る。日本人の感覚からすると「いい加減」な、しかしよく考えると「良い」加減の工法である。
 全5つの橋脚のうち、4つはうまくいった。最後の橋脚で事故は起きた(事故は、往々にしてそんな風に起こる)。水中コンクリートを打ってドライアップするまではよかった。私も、これくらいの漏水ならこれまでよりいい出来だな、と思って現場を去った。その10分後である。小さいと思っていた孔の周りが一気に崩壊して、水が吹き上げてきた。幸いにしてけが人はなかったが、ここは全工程のクリティカルパス(これが遅れると、工事全体が遅れるという工種)である。時間はない。
 しかしもっとも大切なことは、再びドライアップしたときに別の場所で同じ事故を起こさないことである。事故の本質を探らなければならない。
 そのためすぐに調査を命じたが、施工者は、器械がない、手配に時間がかかるなどと言って応じない。「わかった、なら、お前を外す」と脅して、調査をやらせた。その結果、他の場所も危ないことがわかった。どうやら施工に問題があったようだ。今回は一番弱いところがやられたということである。壊れたところを補修しても、次にまた弱いところがやられる。文字通りのドロナワである。水中コンクリートに代わるものを作るしかない。
 私の結論は、水中コンクリートの上に30cmの鉄筋コンクリート床版を、外水位の低いときに、ほぼドライの状態で打つこと(「橋梁と基礎」誌ならもっと書くところですが、皆さんのために詳細は省略)。
 計算もした、現場もつきっきりで指導した。問題はないはずだが、ドライアップするまでは祈るしかなかった。祈りは、・・・通じた。工事は最小限の遅れで進行中である。

◇ ◇ ◇

 文芸春秋の昨年12月号に興味深い特集―徹底研究 日本人のための宗教―があった。山折哲雄という高名な(らしい)宗教学者が、仏教、キリスト教、神道のそれぞれの日本の第一人者(らしい)にインタビューするという企画である。
 そもそもあの大震災で、宗教は無力だったのではないかという疑問を拭えない私としては、少しハスに構えた感じで読み始めた。
 「これは悪縁だ、それを引き受けろ」という仏教、「すべては神の意思である」というキリスト教・・・これでは誰も救われない。どうしてあの人が死んで私が残ったのか、という問いに答えていない。
 神道は、少し違うようだ―「自然は人に恵みを与えるが危害も加える、何が起きても今を生きろ」神は大自然の前では無力だと言っているようなものだ。
 日本人にとっての神道は、生きてゆく規範のようなものかもしれない。想定外は起こる、永遠なるものはない、すべてを受け入れ明日に向かって今を生きろ。神道では、結婚式を教会で挙げ、仏式で葬式をし、困ったときだけ神様にお願いするのも、アリなのだ。クリスマスといっては騒ぎ、正月には神社を詣で、実家に行くと仏壇を拝むという典型的日本人である私には、このいい加減さがありがたい。
 神道では「人は死ぬと神になる」のだそうな。恥づかしながら、そのことにはじめて気がついた。考えてみれば、原宿には東郷神社があり、豊臣秀吉を祀った神社も各地にあるらしい。天神様が菅原道真を祀っていることは誰だって知っている。子供たちの受験前には、私も「神だのみ」に行ったではないか。これまでそんなことを気にしたことがなかった、ということだ。

◇ ◇ ◇

「たれも神を見たものはないが、神はこころのなかにある」とは、わが小学校の校長先生の言葉である。卒業アルバムの巻頭に揮毫されていた記憶がある(この歳になると5分前のことは忘れても、50年前のことはくっきりと覚えているのだ)。その時は「ふーん、そういうものなんだ」と思っただけだが、今はその言葉が心に響く。
 実は、上記ローテクの真髄の事故対策を決めたあと、夜中に目覚めて、あれでよかったのだろうかと不安に襲われたことがある。再度スケッチを描いて、超概算(倍半分の間違いをしていないかを確かめる)で確認する。そのあと心の中でつぶやいたのは、「たのむで、おふくろ」だった。
 そうか・・・私のとっての神は、母だったのか。

 もうすぐ母の三回忌である。

 

【香川県関係者に贈る後日譚】
このエッセイ脱稿後、うどんが食べたくなった。前回帰国時に、吉祥寺の名店「葱坊主」でもらったうどん玉を、冷凍して持ってきてある。
少し考えて、二玉茹でることにした。自然解凍して、大き目の鍋できっかり12分。
今日のメニューは、おろしぶっかけ。大根はたっぷりおろしたし、しょうがもすった。だしは鎌田醤油の「だし醤油」。さすがに「すだち」はないけれど、ライムで十分。味は保証つきだ。
栄養のバランスを考えて、トマトときゅうりを切り、アジの開きも焼いた・・・これが余分だった。茹で上がって驚いた。どんぶりにたっぷり二杯ある。
これは作りすぎたと思いながら、とにかく食べ始める。さすがに二杯目の1/4ぐらい残してギブアップ。
 「ごめんなさい、許してください」とつぶやきながら、ゴミ箱に捨てる。メイドの料理を捨てるときは何も思わないのに、今回はとんでもなく悪いことをしているような気になる・・・さて私は、誰に謝ったのだろうか。

 

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西貢つれづれ窓

〈第23回〉

シニアエンジニアという生き方

-ベトナムの現場から-

 べトナムは不思議の国である。もはや戦後37年。石油もある、天然ガスも出る資源大国なのに、未だに政府開発援助(ODA)に頼らないと社会資本整備が出来ない。
ようやく始まったハノイとホーチミンを結ぶ高速道路や、この二大都市内の鉄道建設、ホーチミン郊外に計画中の巨大な国際空港も各国のODAによる。
 これをみて、今のベトナムは日本の昭和30年代だという人もいる。が、街中を飛び交う無線LANやコンピュータに立脚した生活は、日本のはるか先を歩いている。
ところが、少し空を見上げれば、夥しい数の架空ケーブル。この優れたインターネット環境も、脆弱な基盤に支えられていることがわかる。
 一方、雨期になると毎日のように道が川に変わる。そのことに誰も文句を言わないし、為政者からは、例えば地下河川を作ろうという話はまったくない。人は皆、黙々と水の上をバイクで走る。

 私の仕事は、上記ハノイ~ホーチミン間高速道路1,300kmの内3.1kmの施工監理。立場は、発注者からも施工者からも独立したレジデントエンジニア(RE、いわゆる「第三者技術者」)である。
技術力のない発注者の代理として施工監理し、施工図、施工計画、下請け業者、材料、試験方法、試験結果等々を審査・承認(もしくは拒否)する。さらに、現場で起きるさまざまな問題に解決案を提示し、現場に潜在している問題を顕在化させ対応を図るなど、強大な権限と同時に大きな責任がある。
 契約先の会社には申し訳ないが、私には組織に対するロイアリティーはない。
しかし、目の前の工事を50年後にも憂いのないように完成させ、私の周りにいる若者たちの成長を手助けしてやりたい。それが自分に課したミッションである。後者はもちろん、私の契約には入っていない。
 だから、国の不思議に思いをめぐらせている時間はない。目の前の多くの不思議と戦わなければならない。

不思議の国の建設事情

【契約】 この工事の契約設計と工事仕様書は、日本のコンサルタントの手による。
契約設計は日本の「照査技術者」という方の照査を経て、ベトナムのState Acceptance Committee(国家承認委員会とでも訳そうか)の最終承認を受けている。 この何重にもわたるチェックによって、設計と仕様書には誤りはないというのが大前提である。
しかし、契約設計には一瞥しただけで無駄だとわかるところがあるし、「照査」業務は明らかにカタチだけであり、見逃された設計ミスも少なくない。が、それを変えることは(仮に減額になる変更であっても)大変な労力と時間がかかる。
例えば、基礎杭の鉄筋が多すぎるから減らしたいとか、杭が長すぎるから短くしたいとう提案は、現地では承認されてとっくに施工済みだが、本省の正式承認を得るマデに1年かかったという具合である。
 それでもこの新米REは、ベトナムに無駄な金は使わせたくないし、耐久的でない設計は直したいと、肩肘を張っている。あなたのような人を、ベトナム語で「クゥン・ダウ」というのだと、秘書が教えてくれた。
「頑固者」という意味である 。

【工程】 契約工期は36ヶ月。既に30ヶ月が経過したが、進捗はようやく50%を超えたところである。したがって、どう転んでも間に合わない。もちろん工事遅延反則金(LD)は定められている。
が、先月施工業者の社長が同席した発注者との会議の席上、社長が「5ヶ月遅れで完成させます」と宣言した途端、それが一人歩きを始めた。誰も正式文書で認めてはいないけれど、もう既定事実として扱われている。
 われわれの見たところ、それにも間に合わない。そのことで施工者の副所長を詰問すると、彼はこともなげにこう言った。 「時期が来れば、また延ばします。小出しにするのが、ベトナム流・・・」
ベトナムでは、LDを払った例しはないらしい。

進捗率いまだ50%

【安全】 ベトナムでも、建設現場は安全「第一」である。その旨の看板も掲げてある。
施工者は厚さ10cmに及ぶ安全管理計画書を提出するし、毎月、下請け業者を交えて安全会議が開かれる。われわれとの定期的な合同巡回もある。資金提供元のJICA(国際協力機構)や発注者の元締たる運輸省の安全巡回で指摘されたことに対しては、写真で是正報告する。それが仮に写真撮影のための是正であっても、書類のやり取りは完璧である。
 私に言わせれば、これらはすべてカタチ。事故が起きても、誰も責任を取らないための仕組みかと言いたくなる。
 今の私の関心事は、第三者災害。工事契約に安全管理費が計上されていないため、REとしても安全対策を強く要求できない。
例えば、工事境界にフェンスすら作らない。だから付近の住民が平気で工事範囲に入ってくる。私が口をすっぱくして言うしかない。大人はしょうがない、とにかく子供を現場に入れるな、そのことを安全担当者は近所の一軒一軒に説明して回ってくれ。ようやく今、現場から子供の姿が消えた。

【品質】 ベトナム人は、人を信じない。そしてそれは、決して恥ずかしいことではない。
レストランでは、勘定書を長い時間かけてチェックするし、両替所でも受け取ったお金を1枚づつ丁寧に数え直す。品質管理も然り、人は悪いことをするという前提でルールが決っている。しかしこれは、世界の常識である。
 材料の受け入れから鉄筋検査、型枠検査、コンクリート打設に至るまで、すべての作業にわれわれの検査官が立ち会う。そのときのサインが、毎月の支払いの基礎となる。その結果、膨大な書類が毎月の支払い時に取り交わされる。これも世界の常識である。
 問題はその書類が、構造物の品質を代表しているかどうか。これまでの円借款工事で日本人が作り上げたシステムか、ベトナム人が考えた書式かは知らないが、答えは「否」である。
今度は私が、わが検査官たちに口をすっぱくして指導する。かぶり(コンクリート表面から鉄筋表面までの距離)の確保とコンクリート打継ぎ面の処理を入念に見ろ、それが耐久性にもっとも大事なのだ。
だから、それがダメならサインをするな。ジャンカ(コンクリートが回らなくて石が見えている状態)等の不具合は、勝手に補修させるな、悪いところを全部取ったことを確認した後、直させろ・・・

【原価】 ここは前渡金(工事着手前にもらうお金)が10%、以降完成工事高の90%が毎月払いである。
コンクリートのように1ヶ月経たないと強度が確認できないものは、打設した段階で70%支払われる。それでも現場のやりくりが大変なことに違いはない。
ベトナムの施工業者は、日本と違って現場が本社にお金を借りるということをしない。
したがって、現場は銀行にお金を借りに行く。担保がなくなると銀行は貸さない。
となると、下請けへの支払いや社員の給料が止まる。社員は我慢をするが、下請けは仕事をしない。そして、工期が遅れる。前述の工程の遅れはこの図式である。
 この現場では、「第2回」前渡金などという奥の手も出てきたが、今のところその効果は出ていない。
発注者は、工期の遅れはコンサルタントの責任だと言わんばかりであるが、施工者が「金がない」と言えばそれ以上は追求しない。 「しょうがない」で終わりである。

伝えるべきは技能

 日本で技術の伝承・空洞化が声高に叫ばれていたのは、ほんの数年前のことである。このところ、そんな言葉を聞かなくなったのはどういう理由であろうか。
これに対する私の数年来の主張は、「技術は伝承すべきのもではない」である。伝えるべきは技能であり、先達の技術は超えるべきものである。
 洋の東西を問わず、建設現場の技能は一にも二にも下請け業者にかかっている。したがって、いい下請けにあたれば黙っていてもいい仕事ができるが、そうでないときは元請の指導力が必須である。その指導力すなわちエンジニアの技術力である。
 わが現場のコントラクターは、経験豊富なプロジェクトマネージャー(PM)を除けば、全員30代前半から20代後半。技能を指導する経験もなければ、意識もない。下請けの言いなりである。

 河川内基礎のコンクリート打設に朝までつき合った話は、前回既報の通りである。下請け業者を直接指導することは、当然私の業務契約にはない。意地である。

人は育つのではない、育てられるのだ

 建設会社に設計部門があるのは、世界でも日本だけであろう。ベトナムも例外ではない。
したがって、この国の建設工事では必ず、発注者から承認された設計会社を下請けとして契約する必要がある。設計会社は、施工図を作り、仮設計算をし、仮設計画図を作る。そのすべての審査・承認作業は私の仕事である。
 ベトナムでは、施工業者よりコンサルタントの方が地位が上のようである。これも世界の常識かも知れない。
コンサルタントに行く人間は「優秀」だから、「最新の」技術を使う。例えば、山留め(掘削した地盤を崩れないようにする構築) も、コンクリート桁の型枠も、船が着くための岸壁も、複雑な(=実際の形に忠実な、しかし細部で正しくないから全体で正しくない)モデル化をしてコンピュータで解く。
 この設計会社はハノイにあるから、私と直接打ち合わせができない。そこで間に入るのが、多分学校では最優秀ではなかった、施工者の品質管理マネージャーである。30歳。
 「お前な、コンピュータの計算が正しいと思ったら大間違いだぜ。モデルが正しくないと結果も怪しい。こんなもん、どれだって手計算で30分。で、そっちの方が実際に近い。現場で実物を見て来いよ・・・」
 彼は、砂漠に水の吸い込むごとくなんでも吸収してゆく。
 「1/75や1/120の縮尺で書いた図面は審査しない」と私。彼は不満そうに「??」の表情を見せる。私は正しい縮尺の図面で、モノが大丈夫かどうか、詳しい計算が必要かどうかを判断する。だから、三角スケール(三面にそれぞれ、1/100と1/200、1/300と1/400、1/500と1/600の目盛が打ってある)が使えない図面はチェックできないということなのである。

 先日、私の一時帰国に際し、彼は申し訳なさそうに頼んできた。
「お土産に三角スケールを買ってきてくれますか」
この若者は、人を喜ばせることには長けているようだ。
 ベトナムの大学卒は、あきらかに日本のそれより勉強してきている。
それは、彼らの基礎知識をみればわかる。だから、理屈を言えばすぐ理解する。だが、残念ながらここには企業内教育という概念がないようだ。「教えない教育」といえば聞こえはいいが、結局のところそんな余裕はないということだろう。
 施工についても、カイゼンということを考えたことはなさそうだ。1サイクル10日予定の橋脚施工に30日かかっても、なす術を知らない。ベトナム人が勤勉であるというのは多分正しい。それがどんなに非効率なやり方であっても、彼らは黙々と同じことを繰り返す。
 ここは昔取った杵柄でTQC(全社的品質管理手法)だとばかり、下請けと元請を集め、カイゼン活動の真似事を始める。1本づつ吊り上げていた軸方向鉄筋を、まとめて吊り上げるまでに1ヶ月かかった。これだけで時間は1/5~1/10に短縮される。鉄筋を予め組んで時間をかせぐなどというのは、まだまだ先の課題である。
 私のオフィスは、時に若者で溢れ寺子屋と化す。
 もちろん、こちらが学ぶこともある。前出の河川内の基礎コンクリートの施工。
彼らが提案してきたのは、ローテクの真髄とも言うべき方法であった。気中で鋼製の箱を作り、それを杭の頭部からぶら下げておく、人力で所定の位置まで降下、水中でコンクリートを打ってドライアップする。
その後は通常の気中施工である。恥ずかしながら、この工法の提案を受けたとき、言下に申し渡した。
「こんなんで水が止まるはずがない」
 このときばかりはテキも動じなかった。ちょうど今、近くで施工中だから見に行きましょうと、誘う。
断る理由はない。施工しているのは韓国業者であった。漏水はあるが、フーチングの施工に問題はない。
即、承認である。
 私も、育てられているのだ。

ローテクの真髄

遊びも仕事も一所懸命

 64歳になった今、やっていることは結局、30代前半から始めた仕事の延長である。冒頭の「何をしているときがいちばん楽しいか」という問いは、「毎日やっても飽きないことは何か」と置き換えた方がいい。
そうすると、その答えが「仕事」であることが容易にわかる。
 私は無趣味を標榜しているが、週1回のゴルフも(スコアに関係なく)一所懸命だし、読書も欠かせない。
皆と酒を飲んで騒ぐのも大好きである。しかし、いずれも毎日だと飽きるような気がする。
 仕事は、ほうっておいても向こうから変化をくれる。どんな変化や無理難題が来ても、解決する道は見えてくる。それは、これまでの経験と、わからないことを聞ける元同僚や友人のおかげである。これ以上の楽しいことがあろうか。
 ネット上で私の生活を知った同級生が、「仕事と楽しみを統一しうる人間は運命の寵児である」というチャーチルの言葉を送ってくれた。「運命の寵児」とは大げさだが、英語ではfortune favoriteと言うらしい。運に気に入られた・・・何のことはない、この人生ツイていた、ということではないか。そう言われれば、まったくその通り。30年前に今の仕事にめぐり合ったことも、定年後に海外で働くことが許される環境にあったことも、すべてツキである。
 私は決して真面目に生きてきてはいないが、遊びも仕事も一所懸命ではある。
これがツキを呼んだかどうかわからないが、これだけは私の人生の「不易」である。

(コンクリート工学2013年1月「不易流行」特集号への投稿を、本欄読者用に改稿)

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西貢つれづれ窓

〈第22回〉

私のいちばん長い日

 映画「The Longest Day(邦題:史上最大の作戦)」は、第2次世界大戦中の連合国軍のノルマンディー上陸作戦の日の話である。封切りは1962年。ミッチミラーという男声合唱団の歌った主題歌も合わせて、団塊世代ならみんな覚えている。
 「サイゴンのいちばん長い日」(近藤紘一 文春文庫)が、このタイトルから来ていることは想像に難くない。この日は、南ベトナム政府が「陥落」した1975年4月30日のことである。北ベトナム軍に言わせれば、「解放」または「統一」された日ということになる。
 この本は、戦時下の民衆の生活が精緻な観察眼で描かれた名著であるが、今回はそんな歴史的な話ではない。これまでの2年数ヶ月で、私がもっとも長く働いた日というだけの、まったく個人的な話である。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 本欄6月号で、河川内のコンクリート基礎の表面に発生した、夥しい数のひび割れの補修作業のことに触れた。施工者のプロジェクトマネージャーは、その原因を、ワタナベの言うとおりにしたマスコンクリート(マスコン)対策のせいだと言い張った(コンクリートは固まるとき熱を出す。その影響は厚さが厚くなるほど大きい。それを防ぐ方法を私は指示したのだった)。私は、今回のひび割れの原因は、締め固め不足と表面仕上げのまずさであると主張した。コンクリートはただ流し込むだけではダメである。バイブレータという高周波振動器を使って、締め固めることが大切なのである。また、いわゆる「左官仕上げ」も大切で、これはなでるのではなく、押さえ込む、もしくは叩くという動きが重要である。私の主張は、それらの作業がいい加減だったからひび割れが発生した、というものだった。
 結局、施工者負担でひび割れを補修したからそれで納得したのかと思っていたら、二つ目の河川内フーチングの施工にあたり、出してきた施工計画書はマスコン対策をまったく無視したものだった。これには私も頭にきた。
 「あんたなんかと話してもしょうがない。マスコンの専門家を雇え。こっちは、俺が専門家だ」
 「あんた(=私)の言う通りにして、またひび割れが出たら、コンサルタントが補修してくれるのか」 と、不毛の議論がレターで往き交う。
 「俺は専門家だ」はハッタリである。それができたのは、昔の同僚のおかげである。ことあるごとにメールで相談。一流のエンジニアとそうでないヤツは、こちらが真剣にモノを聞いたときの対応でわかる。彼はホンモノだった。
 施工者のいう施工方法を承認して、またひび割れが出ても、また施工者の負担で直させればいい。それでもコンサルタントの責任を果たしたことになる。しかし、それでは私が納得ゆかない。意地である。
 スペック(工事のやり方を細かく規定した文書。本来は必ず守らなければならないものである)には、コンクリート中の最大温度と最小温度の差を20度以下にする旨の規定がある。この条件で管理すれば、発熱によるひび割れは確実に防げる。が、現実には不可能な規定である。コンクリートの温度を測ることは契約にないし、対策工も計上されていない。できるはずのないスペックがまかり通るのは、コピー・ペースト文化の弊害であろうか。そんなスペックを無視して、これが最善だろうと施工者と合意したのが前回の養生方法であった。そこで、最後はこれを逆手に取った。
 「前回の養生方法以外をやりたいなら、スペックの規定を満足しろ」
 これじゃあまるでインテリやくざだと思ったが、効果はテキメン。打設日直前に、前回と同じ養生方法で合意した。
 そうなれば、こんどこそひび割れを出すわけにゆかない。不毛の議論の代わりに、ひび割れのないコンクリート基礎を造らせなければ・・・という訳で、コンクリート打ちにつきあうこととなった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 9月7日(金)午後1時 打設開始。打設数量914m3。 私の立場は、言ってみれば発注者の代理人である。だから、直接下請け作業員を指導することはありえない。しかしながら、今日だけはそんなことを言っていられない。結果がすべてである。ひび割れを出したときの言い訳は、用意していない。
 ポンプ車2台による打設である。その両方を行ったり来たりしながら、檄を飛ばす。全部、日本語だ(以下、解説は省略します、雰囲気を感じていただければ)。
 -バイブレータでコンクリートを動かすな
 -バイブレータは前に打った層まで入れろ -入れたら五つ数えろ、モッ(1)、ハイ(2)、バー(3)、ボン(4)、ナム(5)(ここだけベトナム語だ)
 -バイブレータは横に寝かすな、縦に入れろ
 -あそこをかけろ、ここは待て
 ・・・いやはや、口うるさいことこの上ない。今回初めて来た作業員は、あのうるさいオヤジはなんだ、という顔で私を見る。それに顔見知りの作業員が、「とにかくあの親父の言うことは聞かなきゃならんらしいぜ」と言っている(ように見える)。

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 下請けの主要メンバーは、台船の上で生活している。午後6時、下請けのオヤジが私を夕食に誘う。断るのも大人気ないので、いただくことにする。誰かの奥さんが賄いをやっているらしい。職人用の弁当箱に盛り付けてくれる。今宵のメニューは、豚の角煮風スープ、野菜炒め、いわしの塩漬け、生野菜、ご飯。これがうまい。完食。 生活の場は、台船上にトタンで囲いと屋根を作っただけの質素なものである。見上げれば、屋根に発泡スチロールが貼り付けてある。先ほどのマスコン対策のために、側型枠に発泡スチロールを貼り付けろと言ったとき、そんなものはべトナムにないと言ったのはお前らだろう・・・と、独り言つ。

夜明けのコンクリート打ち

夜明けのコンクリート打ち

 作業がひと通り慣れてきたところで仮眠。最終層に打ち上がる前に現場に戻る。ここからが勝負だ。午前6時、打ち終わりが近い。朝焼けが美しい。明日のこの時間は、ティーグランドだなと思いながら、
 -仕上げは待て、・・・よし今だ、始めろ
 -そこからタンピング(コンクリートの表面を叩くこと)を始めろ、あそこはまだだ
 -そろそろ散水の用意だ
 -誰がエアバッグ(いわゆるプチプチ、保温効果が大きい)を敷いていいと言った
 -剥がせ。ほら、ひび割れが出てるだろう。つぶせ
 午前10時すべての作業終了。事務所に戻って、前夜から冷やしておいた、とっておきのホーチミン製サッポロビールを飲む。五臓六腑に沁みわたるとはこのことだ。

現場に朝がやってきた

現場に朝がやってきた

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 一週間後、4層に敷いたエアバッグを取り除き、施工者・下請けと一緒に表面をチェックする。ひび割れはない。皆の顔に一様に驚きと喜びが表れる。私はといえば、・・・ホッとしたというのが正直なところである。  
 「おい、次回も俺が付き合わなきゃだめかい」と聞くと、「はい、仕上げのときだけお願いします」ときた。途中の細かい指示はうるさかっただけだ、という意思表示だろうか。

朝日を浴びる陸上部高架橋

朝日を浴びる陸上部高架橋

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